19.津波にどう抗うか〜その1 2月8日記事

宮古市の田老(たろう)といえば、震災の前年にここを訪れた時、
要塞のように田老を囲っている防潮堤の壁と門を見て、
畏れすら感じていたのですが、
東日本大震災では、200人近い死者・行方不明者が出ており、
今回、破壊された防潮堤の光景を目前にして、
自然に向き合う人間の限界を感じつつも、
ただただ茫然としてしまうのでした。


@防潮堤と田老中心部

ここ田老は、1896年の明治三陸地震の津波では、
家屋がほぼ壊滅し、住民の8割以上が死亡または行方不明、
また、1933年の昭和三陸地震の津波では、
死者・行方不明者が900人以上、
建物は9割以上が被害を受け、
これまでも幾度となく、
津波で甚大な被害が出ている集落です。

昭和三陸地震後、
田老には、高台移転のための用地も少なかったことから、
防潮堤で集落を囲うという選択をし、
1958年に完成させます。
この時の防災思想は次のとおりです。
1.防潮堤の高さは海面から約10メートル
 (明治三陸地震の津波の高さは約15メートル)。
2.津波を真っ向から受けるのではなく、
 受け流す配置にする。(地図@)
3.防潮堤内の集落を碁盤の目に区画整理し、
 交差点の視界を確保する。
つまり、この時は、「津波は住宅地に到達する」
ことを前提に、「逃げること」に主眼を置いていたのです。



しかし、その後、2本目と3本目の防潮堤が建設され、
X状の防潮堤要塞ができあがります。
とくに、1965年に完成した2本目の防潮堤は、
津波を真っ向から受け止める角度に設置されたのです。



防潮堤要塞の安全神話とともに、当初の防災思想が忘れられ、
避難路の考慮も後回しにしたまちづくりが行われたのです。
安全神話による油断で逃げ遅れた人も多いと聞き及んでいます。


A破壊された防潮堤跡

今回の津波で破壊された防潮堤は、
津波に立ち向かった2本目の防潮堤だったのです。

宮古編 完
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