![]() ![]() |
---|
震災当日 5月4日記事 わたしの職場の隣席にいる臨時職員Sさんさんは 震災で甚大な被害となった大槌町(おおつちちょう)の出身です。 ![]() 4月中ごろのある日、普段から快活なSさんに、 震災当時のことについて教えていただきました。 ご本人から了解をいただきましたので、 みなさんも、この震災の1コマを、 胸の片隅に刻んでいただくとともに、 防災の心得としていただければと思います。 2011年3月11日、 Sさんはすでに大槌町を離れていましたが、 高齢のご両親が大槌町在住でした。 *****ここからSさんの回想です************** 震災当日、両親のことが心配になったのですが、 電話もまったくつながりません。 映像もない断片的な情報として 「(海岸から距離のある)◎◎商店まで水(津波)がきた」など、 とても信じられないものでした。 震災翌日、両親の安否確認に盛岡から大槌に向かいました。 海岸線の幹線道路は寸断されていたため、 山地の県道から大槌入りを目指しました。 途中から山越えの徒歩になってしまいましたが、 なんとか大槌に入ることができました。 全てが破壊された町を見たとき、「これ大槌じゃない」と 無惨な状況を全く信じられませんでした。 ただただ呆然とするだけ。 当然、涙のひとつも出ませんでした。 さて、実家に近い高台の小学校に行くと 両親が無事に避難していることを確認し 再会できました。 しかし、高齢の両親に山越えの徒歩はさせられないと この日はそのまま盛岡に帰りました。 翌日、震災から2日後、山火事を横目にしながら 林道の迂回を重ねて自家用車で大槌入りでき、 なんとか両親を盛岡に避難させました。 両親は、地震直後、これは危ないとの直感で、 すぐに高台の小学校に駆け込んだとのこと。 油断した住民、高台への坂道で様子見をしていた住民は 津波に流されたのだそうです。 両親はなんとか避難できましたが、 親類には亡くなった者や未だに行方の判らない者もいます。 行方不明のままの叔父の捜索では、 警察で数多くの他人の遺体の写真を確認するのですが、 その痛々しい姿に辛くなってくるのです。 警官が写真の再確認を勧めてきたとき、 「叔父を見つけたい」一心で辛い作業を繰り返しました。 **************************************** そのSさんの話から3日後、 震災から4年を経過したSさんに サプライズな出来事がもたらされるのです。 写真をクリックすると大きな写真を見ることができます |
「岩手」のページへ 日記のトップへ |
Copyright (C) 2005-2015 しりべしのちいさな家マスター.All Lights Reserved. |